妹たちのこと(2)

ダラダラと長文。


ある人とメッセンジャーで話している時に気付いた事がある。ソレは『他人の事はどうでもいい』と思っている人が多いという事。そりゃあそうよね。しょせん他人事なワケで。。。
でもね、その他人事の中から多くの事を学べるかもしれないのに、学ぼうとしないという事とも取れるんじゃないかとも思う。コレは寂しい事だと思う。どんな事であっても、当事者はその時間の流れの中で多くを学ぶ。共に過ごしていなくても、その時その状況においてどう感じたかというテキスト(日記とかBlogとか)を「読む」事で、ケーススタディは出来ると思うのだけれど。


。。。二人の妹の話を続けよう。彼女らは二十代半ばにこの世に生まれてきたといえる。私は、彼女らがソレまでをどう生きてきたのかを知らない。人として世に出ていたという意味では、コドモではないだろう。けれども、彼女らはコドモらしくはないとしても、年相応の女性としてのなんたるかを身に付けていないのだ。
トランスというのは、その身体表現によって生存競争を勝ち抜く事を主としていない。単に「自らが『そうありたい』」と思う生き方を選んでいるという事だ。人間という社会的生物は、社会と関係し他の人間と関係し、また種の保存をしようとする。衣装や身だしなみというのは、その関係を有利にするための手段なのだろう。トランスもまた、社会と関係し他の人間と関係するために、『そうありたい』と思うサイン(以下、衣装や身だしなみの性別という意味で「サイン」という表現を使う)を身に着ける。だがしかし、トランスのサインは性行為を生殖に繋げる目的を持たない場合が多い。トランスといえども生き物だからセックスはするわけだけれど、生殖を目的としていない人が*多い*、という意味だ。
生殖を目的としない性行為を不毛とするか否かは人それぞれの感覚だと思うので、ココでは私の考え方を書かない。聞きたければ私に連絡してください。


妹たちもまた、その流れを辿るだろう。彼女らは子孫を残す事を選ばなかった。正確にいえば、私が彼女らに現実に逢った時には、すでに子孫を残す可能性を捨てていた。この事についてはココでは詳しく書かない。
さて。。。この先では、二人の妹の各々について私が思っている事を書いて行こうと思う。各々の在り方は各々が決める事だと思うし、ソレをジャマするような事は書けない。つまり込み入った事は書けないという事だ。。。このBlogを読んでいる人の多くは、私の二人の妹が誰と誰であるかを知っていると思うので。


続きはまた後で。オヤスミナサイ。