自己愛について思う事など

Sep.21.2007「私が女を感じるツボ」
(http://d.hatena.ne.jp/yasunoxx/20070921/p3)の続きです。
そのうち、自己愛という点について、もう少し掘り下げてみようかと。


「自分を全肯定する気持ち」という感覚に、
深くシンクロしているわけですけれども。
コレは、裏を返すと、
自分をどのくらい好きになれるか、という事でもあるわけです。



現在では、
なりたい自分になるための方法に手が届きさえすれば、
なってしまう事ができる。


そこには悩みや葛藤はない。
彼ら彼女らは手段を道具のように操り、
実に鮮やかに、なりたい自分を成就させてしまう。


その「成就した姿」は永遠ではないのに、
その姿が真に望むものとは限らないのに、
その姿を維持する為に必要な環境が整っていないのに、


彼ら彼女らは、過去を脱ぎ捨てて変化し、
自らが望む姿のテンプレートに嵌合し、成就するのだ。
もしもその姿が、自らが望んだ姿と違っていたとしても、
さらに手を加える事で、違った姿へ変化する事ができる。
新しい進化形といえる、かもしれない。



では、私の場合はどうなのか?


私の場合は、私の中に「本来あるべき姿」がある。
それはおそらく生まれた時から在って、
永遠に変える事のできない、
根源のプログラムなのだろう。


その本来あるべき姿も、簡単ではないにしても、
手を伸ばせば自分のものになる、という事を理解している。


これまで私は、その本来あるべき姿に近づきつつも、
あまりの足枷の多さに、思うように前に進めないでいた。
けれども。
その足枷を、一つづつ取り除いていくことを諦めなかった。
そしてつい最近、ようやく前に進む事ができるようになった。


私は本当に自分を好きになる事ができるのだ。



。。。これは、どちらが良いか、という話ではなく、
前者と後者では自己愛のカタチが違う、という話なのだ。
もちろん、どちらであっても当の本人が、
自分を肯定できさえすればよいのだ、と思う。


(この記事、しつこく続きます。。。)